心の毒、もっとも深刻な毒

誰しも争い事はしないで人生を平穏に過ごしたいはずですが、些細なことから人間関係がギクシャクします。人間は、感情の動物といわれます。人の感情にはとても敏感なのです。言葉は、多過ぎても、少な過ぎても、意志がうまく伝わらない場合があります。話下手の人ですと、上手く話そうとして言葉が上手く出ませんし、また吃音症の人の場合は、言いたくても言えないもどかしさと苦しみがあります。意志の疎通が上手く出来ないことで余計な誤解を生み出しています。

人と言い争って相手の毒気を食べますと、これは容易に心から消えません。時間が経つに連れて忘れかけていても、思い出せば、すぐに心苦しくなります。肉体に受けた傷であれば、治癒してしまえば大丈夫ですが、心の傷は心に刻印されてしまい、いつでも再生可能なのです。心の毒は肉体をも蝕みます。毒を食べないようにするしかありませんが、食べない方法はあります。釈迦は弟子たちに、相手から論戦を挑まれても、決して応戦してはならぬと指導をされていました。毒を食べないためにです。

毒を食べないためには、どんな事を言われようとも、心の中に受け入れないことです。聞いても聞かない、聞かなかったことにする。聞き流すだけで、忍辱(耐え忍ぶ)する。こうすれば、毒を食べなくて済むので、心は清浄なままです。怒る心も湧いてはきません。相手から口撃されて、応戦していたのでは、相手からの毒を食べたことになります。しかし、言うべき事を言わないと、相手の主張を認めてしまう場合や、利害がからむ場合は、損失を蒙りますので、冷静な対応が必要となります。

冷静さを失った対応をしますと、後で後悔となる場合が多い。即答を避けれる場合は即答を避け、熟慮の後対応するなど、臨機応変に対応出来る心の余裕を持ちたい。どちらかが感情的になると、お互いに感情的となり、感情の応酬となります。第一線を超えてしまいますと、事態はさらにエスカレートします。当初の問題のすり替えが起きて、問題は拡大し、収拾がつかなくなると暴力に発展します。力での対決とならないよう当初の対応が如何に大切か分かります。

釈迦は弟子達に、他の教団との論戦をさせなかった。そのようなことをしたならば、どのような事態となるか、釈迦には理解出来ていたからです。自分達の教団こそ一番と信じている者同士が論戦したならば、どちらも引けない事態です。争いごとに発展しやすい。争いごとは、後で振り返ってみると、何とつまらないことをしたんだろうと思えます。冷静さを欠く行為です。良く話し合うことにより対立は避けられるものです。話し合いは、時期を見計らうことが重要です。

正法では、正しい言葉を遣い、よく話し合うことを求めています。人間同士は、話し合いで解決出来るはずだからです。心に愛がないと愛のない言葉が出ます。私達の意識活動の根底には、常に愛の念を置かなくてはなりません。心に愛があれば、うまく言葉が出せなくても愛念は伝わります。自分の心は読まれていると思っていた方がいいのです。以心伝心は誰もが持つ能力です。自分の心の中を見られても構わない気構えが大切であり、事実、次元の違った世界からは覗かれているのです。