お世辞の言い方、過度なお世辞に注意

お世辞はどの程度までならいいのでしょうか。人の家に上がり食事を頂いた際、最初の一口目で「美味しいです!」という方を見かけます。よく噛みしめて味わっていない内から美味しいと言うと、お世辞であると分かってしまいます。こうなると食事を提供した方は、どんな気持ちでしょう。極端な人の場合は、口に入れた途端に美味しいと言います。美味しいと言ってから食べ始めることに決めているのです。これでは食べる方も、食事を提供した方も、心には少し曇りができそうです。よく噛んで味わってから美味しいと言った方が、本当に美味しいですとの気持ちが伝わります。

骨董品のような価値の分かりにくいものを手に取り、価値がさっぱり分からないのにも関わらず「ほほう、立派なものですね」と言ったとすると、この場合も、心にもないお世辞を言っている訳ですから、心の中に曇りを生じることになります。このようなことの日常的な積み重ねが、次第に心を汚してゆき不安定な心にします。心からの本当のことを言わなければならないが、社会生活を営む上で、どうしても偽りを口にしてしまいます。悪いことを習慣化させないためには、どうしても毎日の反省が欠かせなくなってきます。

あからさまなお世辞を言われた場合は、気分を害してしまいます。お世辞は少しなら、人間関係の潤滑油の役目を果たしますが、度を過ぎると、逆効果となってしまいます。何事も程々がいいのですね、極端を避ける。学校や職場での人間関係も、みんなと仲良くして、極端を避け真ん中を歩むと、誰とも衝突しません。お釈迦さまは、「神は中道の中に身を隠した」と言われました。神の光が通る道筋とは、極端を離れた中道にある、このことを釈迦は悟りました。このことを悟られてから、むやみに肉体を痛めつける肉体行を止め、何でもよく食べ、健康を回復されました。

その人の長所を褒めたたえる、落ち込んでいる人を励ます、その人の気持ちを良い方向へ向かわせるためにお世辞を言う等、お世辞は使い方次第で大変良い効果をもたらします。褒めるという言葉の効果には、副作用は少ないです。ただ、度を過ぎなければいいだけです。人を勇気づける、生きる希望を持たせる、これらは徳のある生き方です。自分の周囲の人々に対し、こうした行いの積み重ねは、やがて自分にも返ってきます。良い行いの循環です。自分に降りかかる幸不幸は、過去に為してきた自分の行いの反作用(結果)かも知れません。

私たちは、つい先日のことですら忘れてしまいます。つまり視野が狭いといえます。視野を拡大させて、人知を超えた視点に立って眺めるならば、偶然は必然だったのかもしれません。自然界の無秩序に見える事柄も、実は、秩序立っているということです。ならば、私たちの人生も偶然にスタートしたとは考えにくいです。摂理のもとで、必然として始まりました。気が付いたら人生がスタートしていた。学校での試験は、先に答案を見てしまったならば、試験する意味は薄れてしまいます。私たちの人生も同じかもしれません。

人生には、様々な問題が待ち受けています。目の前に横たわる事態に対応し切れずに、尊い人生を投げ出す人もいます。自分の気持ちを理解してくれる人がいなくてやりきれない。自分に共感してくれる人がいない。悲しいニュース報道を見ていますと、その人の胸の内を推し量る場合があります。孤独なるがゆえに、苦しむ場合もあります。人々は出会いを求めて生きています。人は人と、心の底からの共感を持ちたいと願い、その触れ合いの場を欲しているのです。観光地で外国人と出会って、目と目が合い、微笑みあうことがあります。心は通じているんですね。意識の底では繋がっているのですから当然なことなのでしょう。