原始仏典の中の「スッタニパータ」に書かれた経典です。人と群れることなく、独りで歩むことを勧めています。人間は集団の中で生きるものであり、集団生活があるからこそ人類が生きながらえてきました。社会生活の中、人間関係で苦しみながら何かを学んでゆきます。こうしてみると、社会生活の中で揉まれるからこそ修行と言えそうです。社会から離脱して単独で生きるならば、社会不適合者として、良くない烙印を押されてしまいます。
しかしお釈迦様は「ただ独り歩め」とおっしゃています。これは修行者に対しての言葉です。人と交わることは煩悩が生じるからです。いつも声を掛けられる。遊びに行こう、呑みに行こう、観に行こう、何かの誘いを受け、それを断るわけにはいかなくなる。大勢の友人がいれば、いつも誘われ続ける。大勢の友人たちを維持するためには、誘いに参加しなくてはならない。人間関係の輪から抜け出せなくなります。友人が多いことは良いことという風潮に流されてしまう人は多い。
世間一般的な通念で良い人生とは、多くの友を持ち、どれだけ贅沢できたかが焦点となるようですが、ではその先には何があるのでしょう。幸福であるかどうかは、心が安らいでいるかどうかであるはずです。どれほど財産があっても、心が安らいでいなければ、幸福であるとは言い難い。人の心には段階があり、幸福の感じ方が違います。何をもって幸福とするか、その尺度が違うのです。それは過去世で生きてきた体験がそれぞれ異なっているからです。
現代の経済社会では働かないで生きてゆくことは困難です。経済活動をしながら修行に励むという大きな課題が圧し掛かってきます。スッタニパータにあるように、修行者にとり、人と人が交わることは、良くないことと考えられていましたが、それでは生きてゆけません。このジレンマを背負って生きている人は多いことでしょう。そこで職種を選択する生き方があります。自営業を営んでいれば集団生活を避けることができます。
ラジオで人生相談などを聞いていますと、大半の問題となっているのは人間関係です。人は、人間関係で悩み苦しむようです。人間関係が修行の妨げとなっているのですから、釈迦は人と人との接触を避けさせました。釈迦自身が、自分の妻や子供でさえも捨てて修行に出かけています。自宅に引き籠り外出しない若者が話題になることがよくありますが、当人にとっては、最も安らいだ居心地の良い環境なのでしょう。一概に責めれないと思います。
お釈迦さまは修行中、なるべく独りになれる時間を作ろうとした。釈迦は、側近の者たちとも距離を置くようになります。自らの心を見つめるためには、孤独が最適だからです。釈迦の友は、木々に止まる鳥たちや動物たちでした。夜間森の中で独りでいても木を燃やしていれば危険な動物に襲われる心配はありませんでした。失うモノは何もなく、人から声を掛けられることもないので心の中は安らいでいた。瞑想に集中すると同時に、過去の過ちについても反省を深めた。